なんちゃって映画感想文 Feed

2011年10月 1日 (土)

映画感想文 「ミケランジェロの暗号」

Michelangelo 第二次大戦中、ホロコースト下のナチスをモチーフにした映画というと、高圧で残虐なナチスドイツに対して、謂われ無き理不尽な犠牲者であるところの ユダヤ人というのがテーマとして多くが作られているのは周知の通りだが、本作はそんな刷り込みを覆される作品だ。スリリングでウィットに富み、時に笑いさ えも誘う、上質の痛快エンタテインメントだった。

第二次大戦下のオーストリア・ウィーンで画商を営む裕福なユダヤ人カウフマン家。そこの跡 取り息ヴィクトルと、カウフマン家に長く使えた使用人スメカルの息子ルディ、幼なじみで親友だったこの二人が、戦争とナチスのユダヤ迫害を背景に、それぞ れの立場が変わってくることが話の幹になっている。

カウフマン家には国宝級の価値を持つであろう、ミケランジェロの素描画が所蔵されて いた。気心の知れたルディに、酔った勢いも手伝ってそのありかを教えてしまうヴィクトル。その直後、ルディはあろうことかナチの親衛隊に入隊してしまうの だ。そして自分の手柄にするため、噂を聞きつけたSSを通じて、ヒトラーに献上しようと画策し上官に通報してしまう。絵は没収され、哀れカウフマン家はち りぢりになって収容所送りに。しかし、同盟国イタリアの独裁者ムッソリーニ来独に際し、貢ぎ品にされるはずの名画は、実はヴィクトルの父ジェイコブが密か に贋作とすり替えていたのだ。面子をつぶされたSSは、怒り狂いルディに本物の奪取を命じ、絵のありかを聞き出すためヴィクトルは収容所から出される。そ してここから二転三転のドラマが展開し、俄然面白くなってくる。名画のありかを知っているのは収容所で死んだ父のみ。しかしヴィクトルは父の残した謎の遺 言を頼りに、絵のありかを探りつつ、起死回生を企てる。その後、絵を入手するためと称してチューリッヒに向かう二人が乗った輸送機はパルチザンによって撃 墜されてしまい、どうにか助かった二人だが、ここでヴィクトルは機転を働かせ、ルディから制服を騙し取り、自分がSS隊員に成りすまし入れ変わってしまう のだ。俺が本物の伍長だと騒ぐルディだが後の祭り、さあ絵と二人の行方は?。

幼なじみで家族のように付き合い、共に若き日をすごした青年二 人が、その立場の差を超えて親友であったと思っていたのは、実は幻想だったいう冷たい現実。少なくともルディの心には二人の間に厳然とあった、彼にしか見 えない溝があったのだろう。それがナチの台頭により立場が逆転する。SSの制服という「虎の衣」を纏ったことで、ずっと隠してきた、あるいはコンプレック スともいえる感情を解き放つチャンスを得るわけだ。ルディの野望ともいえるこの考えが、このおもしろ悲しい物語の発端だ。

冒頭、ヴィクトル の画廊にルディが久しぶりに戻り再会を喜ぶ二人、そこに悪ガキどもが現れガラスにユダヤを表す六芒星をいたずら書きする。怒った二人とガキどもは喧嘩にな り、二人は留置されてしまう。父ジェイコブの力で間もなく自由になる二人、カウフマン家の力を表すエピソードではあるが、ナチ化したウィーンの状況を説明 するシークエンスとしてはどうなの?とちょっとした違和感を感じていた。しかし後で思い返すと、ここが物語全体に共通する、人が下す他者への価値判断の硬 直を暗示する導入としているのではという気がしてきた。マークを付けることで、その人物をグループ分けしようとする。衣服が変わるだけで、どのような地位 や組織に属するか第三者には見分けが付かなくなる。本人が語る言葉より状況証拠が優先される。つまり、個人のアイデンティティへの評価や判断などは、その 人が身につけているものや、それまでに抱いていた先入観、他者の評価などによって左右されて形づくられ、ほとんどの人の目には公正な判断など付くはずも無 いものなのに、自分の意思や正しい基準として無意識に行ってしまう。うまいたとえが見つからないが「裸の王様」「馬子にも衣装」でどうだろう?人の目のい い加減さ、愚かさへの警告としても興味深い。

それを逆手に取った行動で窮地を逆転していくヴィクトルなのだが、ストーリーの鍵になる400年の歴史を経たミケランジェロの名画とて同じで、専門の鑑定家以外はだれもその真偽が解らないから、贋作を本物と信じて、こわもてSSの幹部がさかんに有り難がって見せるのも滑稽であり、作り手のナイスセンスと思う。

 二 転三転四転五転、はらはらさせられるシーンは途切れることなく、最後までスクリーンに釘付けされ退屈とは無縁。サスペンスとしても一流と思うし、時折入っ てくるコミカルな演出もナチものとしては異色。人物の描写も細かい部分でウィットに富む、エンディングの余韻も超上質、満足度高いエンタティンメント作品 として高得点を差し上げたい。以前見た、似たようなテイストの作品があったなぁと記憶を辿ってみたら、同じ第二次大戦中のドイツをテーマにした「ヒトラー の贋札」があった。なるほど、どちらもナチス=残虐非道というイメージとは一線を画すと言う点で近いと思っていたら、同じ製作スタッフとのこと。大いに納 得。唯一惜しまれるのが邦題、ご覧になってその「どうなの?」感を実感していただきたいが 作品のクオリティとしては現時点で下半期マイベスト3には入れ たい良作だ。

2011年9月14日 (水)

映画感想文 「あぜ道のダンディ」

おはようございます。手焼きせんべい風林堂 酒井浩です。 9月も半ばを過ぎたのにまだ真夏日が続く相模原です。先が見えているとはいえ、ちょっとうんざり気味ですね。

久しく更新していなかった映画の感想文を載せてみます。2週間ほど前に見た、中年オヤジが主役のいい話です。


あぜ道のダンディ自分と同じ年頃のおっさんを、20代後半の映画監督がどのように描くのか、興味を持って望んだ。 前作では、その独特の世界で私達を魅了してくれた新鋭監督が新たに届けてくれたのは、年頃の子供を持つ中年「男やもめ」の奮闘と、家族のつながりをテーマにし た心暖まる作品だった。

北関東の小都市に住む、主人公「宮田淳一」は、若くして妻を亡くし、男手一つで子供を育てて来た。浪人中の長男 と、高三の長女は、共に間もなく大学受験を控えている。特技も学歴もない宮田は、トラック運転手として地味な会社勤めをしている。さしたる趣味もなく、ス トレスのはけ口は中学生からの友「真田」と汲み交わす日々の酒。 が、ある時から自分はガンで余命いくばくもないと思い悩みだす。自分に残された時間の中 で子供達との想い出を作りたいと願い、真田に病のことを告げ、後のことを託そうとするのだが・・・。

出だしの描写はとても痛い。母親のいない家庭 は、こうもぎくしゃくするのか?すべてに不器用な宮田が、本来なら最も安らげる筈の場所である家庭で、子供との距離感を計りかね、最低限の会話さえできな い。子供達は父と目線さえ交わさない。思春期の子供がいる家庭には共通の現象かもしれないが、間に入ってクッションの役割を担ってくれるはずの母親が不在であることがこんなにも重苦しい空気を生むのかと再確認。石井監督、平成日本の父親像を非常によく理解しているぞと期待が高まる。

宮田は、通勤の自分自身に鞭を入れ自転車を走らせる。妻が先立ち寂しいはずなのにそんな素振りは見せない。子供二人を私大に生かせる金などないのに、心配するなと強がる。唯一弱みを見せられる旧友真田の 「奥さん死んで大変だよな?な?」という問いに「五十男が大変なのは当たり前だ」とうそぶく。これが彼の貫こうとする父親像なのだ。男は弱音をはかない、 男は見栄を張る、男は陰ながら思いやる・・・のである。が、自分不治の病に冒されたと思いこんだ宮田が望んだのは、子供達と共有できる楽しい思いで作りだっ た。息子と同じ携帯ゲーム機を買い、娘とプリクラ写真を撮りに行きたい・・・。 突然子供に歩み寄ろうとした父親は、案の定思いっきり外してしま う。

こういう父の姿を目の当たりにすることで、もう一方の当事者子供達はと言うと、これが相変わらず素っ気ない。もう少しオヤジの気持ちを 解ってやれよと説教のひとつもくれてやりたくなった頃、いつしか、初めの冷淡な態度から抱く、食えない若者達という印象が次第に変化してくる。それは息子 「俊也」が真田に語る言葉で遂にはっきりするのだが「わかっています!なめないでもらっていいですか!?」 兄は妹の進路を案じ陰ながら面倒をみていた。 それどころか父の稼ぎを解っていて、自分たちの東京での暮らしのため生活費を貯めていた。不器用でかっこわるいが、懸命に生きる父親を本当は愛していて、 それを旨く伝えられない自分たちにももどかしさを持っていたのだ。

こうして、ほぐれだした親子の心のもつれは、少しだけぎくしゃくした感じ を残したまま、子供達は旅立ちの時を迎える。 父はダンディズムという鎧から、少しだけこぼれ出た弱さを見せ、子供達はその弱さから見えてきた父の本心を知ることで、立ち止まったまま詰められずにいたお互いの距離が近づ いたことを知る。このように全編に流れる、気づかないうちにずれてしまっていた親子の思い、どこの家庭にも起こりうるすれ違いの風景は、子を持つ親になら 強い共感を持って受け入れられることだろう。

石井作品に共通のエッセンスは、その鋭い観察眼によって描かれる、普通に生真面目な日本人が醸すそこはかとないおかしさだ。本人が一生懸命なのに、時として他者の目にはそれが滑稽に写ることをよく解っていて、それを笑いにつなげていく。大爆笑に包 まれるというより、場内にはいつも「クスリ」という笑いが漏れる。しか し、その笑いの質は、嘲笑ではなく共感から来る苦笑であり、暖かさを孕んでいるところに作り手の愛情を感じるのだ。

加えて今作は、家族との繋がりや男の生き方という、ややもすると随所に感涙をさそう作品になりがちのところ、独特の寸止め演出にまんまとはまって、ぐっと来る直前に何度も止められる。そうしておいて、最後の最後にほろりとさせられるから客はたまらない。
スクリーンでいつも主役を張る大物俳優ではないキャスティングも作品のテーマにベストマッチ、格好悪くても一生懸命に生きる男達への応援歌のようだ。地上の星々には、明るく輝く一等星もあれば、気をつけて見なければ存在さえ気づかない5等星もあるだろう。 でも、それだって自分なりの場所で一生懸命光ろうと努力しているんだ なぁ~なんて、あの男を泣かす名番組のナレーションを担当した「真田」の声を聞きながら、最後に思ったりしたのだ。

川崎市アートシアター アルテリオ映像館

2010年5月16日 (日)

オーケストラ!

 おはようございます。ご無沙汰していた映画の感想文を、久々にアップしてみます。 今年になって鑑賞した13作品中、4月末現在マイNo1です。

Orchestra!   旧ソ連時代に天才指揮者と謳われながら、国の指導者による偏見からその地位を追われ、劇場の清掃員をしている熟年男。偶然手にした一枚のFAXから 奇想天外な計画を思いつき、花のパリ、シャトレ劇場で復活コンサートを画策するというあらすじのフランス映画です。

 ●公式サイト

   冒頭、モーツァルトのコンチェルトを指揮する男、携帯電話の呼び出し音で中断されるところから、物語の発端となるエピソードの短いシークエンス、帰宅し た後に妻と交わすやり取りで、彼の境遇が簡潔に説明されます。旧ソ連時代の手厚い芸術家保護と、そこからはじき出され恩恵を得られなくなった者の対比が物語の根底に流れています。 当時の権力者ブレジネフが、ユダヤ人を嫌っていたことが広く知られているわけでは無いと思いますが、事実を背景に沢山の要素が詰め込まれたストーリーはテン ポがよく上質です。

  前半は、主人公で元指揮者のアンドレイが、自分の企てた計画を実行に移すため、同じ境遇で長い時間冷遇さ れたままの仲間を集めるドタバタが楽しい。 バイタリティーに溢れ、アンドレイを支えながら計画を後押しする妻。 元楽団員やその周辺の人物像も、しがない運転手や、およそ元音楽家とは思えぬ破天荒な暮らしぶりの者、いかがわしい仕事などに就く者など個性溢れるもので、大いに笑わされます。 特にアンドレイ がパリとの交渉役に選んだ仇敵イヴァン・ガヴリーロフ、旧いソ連時代の典型とも思える人物像ながら、愛すべきキャラクターとして描かれていて、旧体制への風刺スパイスを効かせた作り手の大人目線が粋で、サイドストーリーとしても作品に膨らみを持たせています。

  どうにかパリにたどり着いた面々、芸術家としての誇りは既に過去、公演そっちのけで「裏ビジネス」に精出す者、花の都で遊びほうける者、衣装や楽器集めも ままならず、ソリストを交えた演奏会前日のゲネプロに、メンバーが誰も現れない。 一体どうなってしまうのか・・ 。 が、その体たらくに呆れるソリストに対し、アンドレイが語る苦し紛れの言い訳が奮っています。 彼の言葉が作品全体に漂う「ゆるさ」を凝縮しているのかもしれません。

  指揮者が、パリ公演の演目として選んだのは、チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルト。この選曲へのただならぬ執念は、物語後半の重要な要素になります。そして、そのソリストとして白羽の矢を立てたアンヌ=マリー・ジャケ、若き美貌の人気ヴァイオリニストと、オーケストラの関係を紐解いてゆく流れは、前半のコ メディータッチと打って変わり、シリアスでスリリング、見応え抜群です。

  クライマックスは、演奏会のステージ。 曲の構成そのままに、オーケストラメンバー共有の記憶を辿ってゆく映像は感動に満ちています。演奏するアンヌ=マリーと、目線を交わらせながらタクトを振るアンドレイ。 「チャイコン」の主題を奏でるオーケストラによるダイナミックな展開部に乗せた映像で、それは頂点に達し感涙を呼びます。 そして、作品中では短くまとめられた3楽章のエンディングとともにストーリーも終わります。 スタンディングオベーションを送り花束を投げるパリの聴衆と共に、スクリーンに向かい拍手を送りたくなりました。 落ちぶれた元指揮者が、マエストロに返り咲いた一瞬です。

  プロコフィエフ はどうした・・! コンチェルトがメインプログラムじゃ短いだろ? コントラバスとパーカッションは見つかったのか? 初演目ソリストが、一度のリハーサ ルも無しで公演か? ガス王は誰が縛った? ハテナや突っ込みどころがいくつもありますが、それら適当さをも含めて心から楽しめるエンターティンメント作品 として最上級と思います。  音楽を愛するすべての方にオススメしたい作品です。 現在拡大公開中!!

 立川CINEMATWOにて

2010年2月26日 (金)

フローズン・リバー

Frozenriver  各国の映画祭で高い評価を受けていながら、日本の配給会社が及び腰で、未公開の危機に瀕していたという作品だそうです。 よい作品イコール高興行成績に結び つかないところが、映画産業永遠のジレンマだと思いますが、劇場や配給会社には是非頑張っていただき、地味でも味わい深い作品を多く紹介してもらいたいと願 います。

 セントローレンス川に面し、カナダとの国境を接する米国最北端の小さな町。そこに住む男の子二人の母親。非正規労働者として僅かの時給で働きながら、新しい家を買うことを夢見ているが、夫にその大切な金を持ち逃げされる。その悲しみの底から、ストーリーは出発します。 もう一人、先住民保留地に暮らす、「モホーク族」未亡人の女、若くして夫に先立たれ、経済力の無い彼女は、1才の息子を夫の舅に奪われている。 この二人が主役です。 

  成り行きで、関わりを持つことになる二人ですが、それぞれの心に巣くういらだちや、人間不信、根深い人種偏見などから当初は反目しあっています。 その関わりとは、 凍った河を秘密裏に渡り、カナダからアメリカへの不法入国者を運ぶことでした。 資本主義社会底辺に生きる女が、必然のように犯罪者に身を落として行きます。しかし、その姿を見て嫌悪感を覚えるものはいないのではないでしょうか。それは、女が母として生き抜くための術をぎりぎりの状況で選択することへの共感からだろうと思います。

  その日の昼食代を、手持ちの小銭を何とか集めて手渡す母親と、受け取る息子のやり取り。無邪気な5才の次男と、半分大人になりかけて、あぶないアルバイトに手を染める15才の長男。職場で冷遇され、苦悩する母の姿を見つめる二人の目が対照的で、アメリカ社会の負の現実がリアルに伝わってきます。 そして、化粧っ化のない、生活に疲れたシワの多い顔のアップや、けっして美しいとは言えない下着姿などが画面に頻繁に登場する母親レイを演じたメリッサ・レオ。 セリフの少ない役どころながら、その演技からは微妙な心の動きが伝わって見事です。  

  やがて、不法ビジネスを重ねる二人に転機が訪れます。 中東の夫婦を運んだ際に起きる予期せぬ出来事から、それまで反目しあっていた二人の心が、微妙に変わり始め ます。それは、お互いの母親としての共感からですが、迫り来るクライマックスへの布石となります。 所行が当局の知るところとなり、犯罪者として負われる身となる二人、その後の人生を左右するであろう究極の選択を迫られる事態が・・・。 先住民問題を絡めたアメリカ社会の複雑さと閉塞を、シンプル且つ如実に表していて、スリリングで且つ心に浸る結末が訪れます。

 「凍った河」に象徴される、冷たい現実と深い溝。 全編寒々しいトーンの映像が、エンドシークエンスでは、少し春を思わせる明るい光でしめくくられ、ほとんど笑わなかったモホーク族ライラが、我が子を抱きながら見せる笑顔と共に希望を予感させ暖かさがただよい、静かな感動で満たされます。

2010/02/13 渋谷シネマライズにて 

2009年12月17日 (木)

戦場でワルツを

先週末、旧友何人かと集まる機会があり、その久々の東京詣でのついでに、銀座でイスラエルの映画を観て参りました。 銀座4丁目角、和光の裏手にある老舗の劇場「シネスイッチ銀座」です。Waltz_1_1b

 原題は、"WALTZ WITH BASHIR" 「バシールとワルツを」 。バシールとはバシール・ジェマイエルという人物のことで、詳細につてはWikipediaにもまだ記載がありませんが、この映画の特徴的なシーンにその容貌が大きなポスターで観られます。既に故人ですが、そのことがこの映画の背景にあります。

 アリ・フォルマン監督・脚本による、自身が従軍した1982年のレバノン内戦の記憶を探るという手法。シュールな色彩、大胆且つ特徴的なアニメーションで作られた、ドキュメンタリー作品でした。右の告知チラシからもご覧頂けると思います。アニメーションで、且つドキュメンタリーという、普通では相容れない手法が斬新です。

 "サブラ・シャティーラの虐殺" "PTSD=心的外傷後ストレス障害"が、ストーリーの骨になります。この20年以上前のレバノン内戦について、詳しい方はあまり多くないと思いますが、私自身も勿論そうでした。 少し知識を仕込んでから鑑賞すべきだったと少し後悔しています。

 中東や中央アジア、アフリカ各地で今も続く戦争状態、安穏とした私たちの日常と同時進行で殺戮が起きていることに、日々いかに無関心であるか、戦争をテーマにした作品を観るたびに思い知らされます。 WALTZ

 新兵として前線に送られた若者が、恐怖のあまり際限なく機関銃を乱射しながら進軍する場面や、今まで軽口を聴いていた先輩兵が、たった一発の銃弾で、生物から、ただのモノになってしまう場面など、無表情なアニメーション帰還者の口から語られる戦場のリアリティーが痛々しく感じられます。

 作品中で語られるエピソードにこんな部分があります。 「あるアマチュアカメラマンが戦場で撮影をしていた。戦闘状態にもかかわらず彼は嬉々としてそれを撮影し、興奮していた。あるときカメラが壊れ、ファインダー越しに戦場を観ることが出来なくなった彼は、突然恐怖に襲われたという・・」。 遠く傍観者でしかあり得ないながら、時として訳知り顔で語る私たちに、その不遜さを責められているとも受けとられる部分かも知れません。

  そして衝撃的なラストの数分間、私は息を止めていたかもしれません。 それまで、で描かれていたアニメーションのデフォルメ映像が、いきなり大転換します。 傍観者であった私たちが、その刹那戦場に連れて行かれたかのような錯覚を覚えます。 これこそ、作者の意図だったのだろうと思います。虐殺を正当化する理由はどこにも存在しません。 今年、米国大統領ノーベル平和賞受賞演説で、戦争の必要性に言及したのが記憶に新しいですが、結果が何をもたらすか、こんな作品から感じ取ってもらいたい気がします。    

 滅多に求めることのない作品のプログラムを、今回は買い求めました。師走の夕暮れ時、華やかに彩られた世界一の繁華街、銀座4丁目~数寄屋橋間、通り沿いの風景。数分前目にした廃墟の映像とのギャップが、小さなトゲのように心に刺さりました。

2009年10月24日 (土)

「南極料理人」

Photo_2 久しぶりの映画感想文です。
 
 海上保安庁勤務から南極ドームふじ基地隊のコックとして派遣された主人公、西村淳のエッセイ「面白南極料理人」を映画化 堺雅人が演じています。真夏に公開された日本映画ですが、文化系オヤジ達の閉鎖空間におけるオモシロ哀しき長期合宿風景描写・・といった感じの作品です。

 冒頭のネタで、いきなり「プッ!」と吹き出してしまい、そこから始まる20分ほどで、極寒南極の、更に寒い高地でおっさんばかりの面子が繰り広げる不思議世界がおよそ解る作りになっています。 

 範囲が極めて限定された舞台設定の中で、隊員個々の人間観察がストーリーの基本となりますが、過酷な環境の厳しさ、大自然のダイナミックさをあえて描かない、過剰な感動を描かない・・むしろ淡々としていて、ほのかなユーモアを交えた日常描写が、日本人のメンタリティーをリアルに表現していて、うまいなあと感じました。

 若い隊員が、日本に残してきた恋人の気持ちを繋ぎ止めておこうと、夜な夜な高額の通信料がかかる遠距離電話で会話をするナイーブさには、草食系男子の悲哀が満ちていて、お約束の顛末もなかなか泣かせます。 西村が調理をボイコット「ふて寝」し、他の隊員が作るまずい料理に涙するシーン、物語のクライマックスともとれる手打ちラーメンのシーン、衛星通信でのフジ基地と日本とのやり取りの場面、どれも非常によくできていて、「平凡に思える毎日だけど、ちょっとした小さな出来事に幸せを感じたり、躓きにも意味があったり、その繰り返しで少しずつ歩むのが人生なんだよ・・」という作り手のメッセージが聞こえてきそそうです。

 西村によって饗される日々の食事は、その限定された材料にもかかわらずどれも凄く旨そうで、料理の見せ方にこだわった映像の作り手の狙いが成功していると思います。 そして、閉鎖空間の運動不足が容易に想像される環境で、毎日こんなものを食べていたら、私などは確実にメタボ一直線になってしまうだろうなぁ・・などと妙な不安を抱いてしまいました。

 任務を終え、帰国する隊員達とを迎える人々と、その後の西村一家を少しだけ描く気持ちのいいエンドシーンが、鑑賞後の爽快感に繋がる良作だと思います。商業映画デビューの沖田修一監督、次回作が楽しみです。


at 109シネマズMM21

2009年6月13日 (土)

路上のソリスト

Thesoloist  とても有能ではあるが俗っぽい価値観を持つ、新聞の人気コラムニスト。 その境遇を背景に心を病み、世俗を拒絶した生き方をする孤高の天才音楽家。この2人の友情、音楽という芸術、二つの無形を映像によって表現しようとした作品だと思う。

 全編にちりばめられた、ベートーヴェン作品の音楽に重なる映像は、合衆国第2の大都会LAを映したものとは思えない透明感と神々しさに満ちている。
 また、クラシック音楽とはおよそ対極にあるような、トンネル内に響き渡る自動車の騒音や、街の雑沓が生み出す音と音楽を重ねて見せたセンスも素晴らしい。
 ハイライトは、ナサニエルが「英雄」のリハーサルを前に見せる恍惚の表情に迫るカメラと、サイケとも受け止められる映像表現だ。作品中『恩寵』と表現された、才に恵まれた者のみが理解できる、深い芸術性を表現しようと試みた意欲が伺える。

  もう一つの無形。 人としての純粋な友情の下に、職業文筆家として、ホームレス天才音楽家のサクセスストーリーを演出するという計算が透けて見えるス ティーブの言動。その友情に感謝しつつも、敷かれた社会復帰へのレールを拒否するナサニエル。彼の反応を通し、人の心の間にある距離感の微妙さを見せてく れる。
 「THE SOLOIST」という、定冠詞のついた原題にも天才音楽家の孤高と、世俗に縛られない自由な心の内を表わしているのかも知れない。 また、スティーブの 行動に対し、同じジャーナリストでもある元妻が、酒に酔って辛辣な皮肉をぶつけるシーンは、アメリカ映画らしいところだ。

 実話を元に、超大国の大都会にある病巣をもあぶり出しながら、過剰なドラマチックさを控えたジョー・ライト監督の演出と、主役2人の迫真演技が素晴らしい。

09/6/10 シャンテシネにて

2009年5月30日 (土)

スラムドッグ$ミリオネア

Slumdog  今年のアカデミー作品賞含む最多8部門を受賞した作品。 既に評価の定まった作品なので、その魅力を伝える言葉は、既に語り尽くされていると思うが、確かにオスカーの名に恥じない素晴らしいエンターテインメント作品だと思う。 インド・ムンバイ、スラム出身の若者が織りなす極上の青春ラブストーリーだ。

 おなじみのクイズショーを題材に、主人公が発する答えと、警察署での尋問、そして彼の人生をシンクロさせて見せるという構成は原作の手法だというが、ダニー・ボイル監督の手による巧みな映像化によって、見事に大成功していると思う。 

  現代日本のフツー階層に暮らす我々には想像することさえさえ難しい、インドの貧困の現実と、その底辺で生き抜いてきた、主人公と兄の生い立ちが描かれる前半シー ンのスピード感とダイナミックさには圧倒される。 あるときは警備員やギャングに追われ、スラムを走り回り、また、母親の死後孤児となった彼らが、旅客列車を生きる糧としたり、インチキ観光ガイドになったりと、自分自身の機知のみを頼りにたくましく生き続けるジャマールとサリーム。 悲惨な境遇とは裏腹に、生命力に溢れ、屈託無く笑って過ごす彼らがたまらなく魅力的だ。 そして、彼らと同じ境遇の子供達を食い物にする、醜い大人の存在。 アジアの影の部分にも切り 込んで見せる。

 後半では、青年になり違う道を歩み始め、対照的な生き方を選ぶ兄弟の姿、高層ビル群が林立し、西欧の夜間コールセンターと化している、IT先進国インドの今、そして、ジャマールの明晰さと、ラティカへの変わらぬ純愛が披露される。 そして、スリリングなクライマックス。

  想像してみよう。 例えば、舞台を別の国に設定しても、物語の幹「恵まれない生い立ちにもかかわらず、困難に打ち勝ち、成功を手にする主人公の生き様。」 は、形を変えて成立するかもしれない。 しかし、彼がクイズの答えを知り得た背景描写、そして何より、作品全体が醸し出す、めまいのするようなライヴ感、 万華鏡を覗くような不思議感は、ダイナミックに変容しているインドの「今」でなければ描けなかっただろう。 大団円のエンディングダンスシーンを含め、最後までインドの懐の深さを体感できる、満足度100%のオススメ作品だ。

  最後に一点、もし本作がオスカー受賞作でなかったら、日本で大きい注目を集めたか どうか、あるいは公開されたかどうかさえ、懐疑的な印象も持った。 決して華がある作品という訳ではない、出演者にビッグネームのひとつもない、SFXもない、し かし、映画の楽しみが凝縮されたこの作品の冠無しでのヒットがあり得たか・・。 GW最終日のシネコン、満席のシアターでの鑑賞後、少し考えを巡らせながらの家路だった。

2009/5/6 TOHOシネマズ海老名にて

2009年4月20日 (月)

「チェンジリング」

Changeling  チェンジリングという題名は「妖精のいたずらによって自分の子供が醜い子供に取り替えられる」というヨーロッパ伝承に基づくとのこと。

 1920年代 ロサンゼルスで起きた事件、実話をベースに、ここまで完成された素晴らしい作品を作り上げたイーストウッド監督と出演者、スタッフに立ち上がって拍手を送りましょう。

サスペンスを基調に、人権、猟奇殺人と法廷と刑罰、警察腐敗と告発など、数々の社会派の要素もちりばめながら、それらを腕のいいシェフが上質に料理し、最高の娯楽作品に仕上がっています。

  最愛の息子を誘拐され、悲嘆に暮れるクリスティ(アンジー)。 一方、その堕落ぶりを常々市民から批判を受けていたロス市警は、これを名誉回復の宣伝好機と捉え、 行方不明の子供を保護したとして、本物とは違う別の子供を彼女に押しつけてしまう。母として当然納得できない彼女は、警察批判を行う。 すると、犯罪被害 者として守られるべき存在であるにもかかわらす、今度は警察当局に疎まれ、当局の息の掛かった精神病院に強制収容されてしまう。 

 このあたりまでが前半の大筋ですが、あまりに可哀相なクリスティと、あまりに横暴なロス市警の態度、おぞましい精神病院の描写に観客のフラストレーションは最高値に達します。 

  続く後半、マルコヴィッチ扮する人権派の教会牧師、、良心的な刑事、市警の怠慢を糾弾する辣腕弁護士等々の登場、そして誘拐犯の正体が明らかになり、追い詰められることによって、事態は急速に好 転、締め付けられるような抑圧感は次第にリリースされて行きます。 エンターテインメントのツボと、観客の心理を熟知した見事な構成ではないでしょうか。 そして、穏やかで、ほんのりとした暖かさを感じる素晴らしいエンディング、もう最高の満腹感です。

  私にとっては、早くも今年1~2を争う満足作品となりました。 良い映画作品に共通ですが、このイーストウッド作品も、登場人物それぞれのキャスティング、人物設定に深みがあり、作品全体の締まりに繋がっていると思います。 PG-12指定されていて、ややショッキングなシーンもありますが、時代考証の観点 から、肯定的に捉えたいと思います。

 本作は「ゴードン・ノースコット事件」という当時の有名な連続殺人事件が重要な背景になっています。  そのことを事前に知っていたら、サスペンスとしての楽しみがやや削がれたかなという印象ですが、私自身は幸いにも、事件と作品との関わりについては知らなかったので十二分に楽しめました。 鑑賞前の予備知識を余り持たない主義がいい方に当たった形です。

  イーストウッド作品は、監督・主演作が間もなく公開を控えているので、益々期待が高まります。

2009年3月27日 (金)

「マンマ・ミーア!」

Mammamiajpg 世界10カ国で上演され、現在も人気を博し続けているミュージカルの映画化作品。

  ABBAのヒット曲22曲で構成される、ジュークボックス・ミュージカルあるいはカタログ・ミュージカルとも・・。 ミュージカルの舞台は、あまり得意ではないのですが、これは一度見てみたいと思っていました。 日本では「劇団四季」がロングラン公演を続けていましたが、芸能関係の友人の話では、同劇団は、多分全編日本語翻訳で上演するのだろうとのこと。 とすると、原曲のイメージが損われてしまうかな?などと勝手な思いこみで、二の足を踏んでいました。 だって、あのヒット曲達が「金・金・金」とか「ちょーだい・ ちょーだい・ちょーだい」みたいに歌われたらねぇ~。・・・なんて心配は無論必要ないでしょうけれど(笑)
 「四季」およびファンの皆様にケンカを売る気はございませんのでご容赦下さいm(_ _)m

 さて本題、なにしろ底抜けに明るく楽しい! 今なお愛され続ける'70s~'80sスーパースターの、色褪せない代表曲が全編にちりばめられ、エーゲ海に浮かぶ楽園のような島のロケーションとの相乗効果で、かつてオンタイムでABBAの曲を楽しんだ人でなくとも、 自然と踊り出したくなるのではないでしょうか。

 ヒロインのきらめくような若さとチャーミングさもさることながら 、ベッドで飛び跳ね、海に飛び込み、歌い踊る母親ドナ、メリル・ストリープが文句なく素敵です。 そしてドナを含む熟年おばさんトリオが、奔放なティーンエイジャーに戻ったようにエネルギッシュに歌い踊る姿には、一部“ドン引き”される方もいるとは思いますが、私は苦笑しながらも、不思議な元気をもらえました。 予告編で紹介されている、「ダンシング・クィーン」をバックに大勢の大人達が踊る前半のハイライトはもとより、黄昏の海と、教会へ続く岩場道のイルミネーションを背景にドナが歌う「ウィ ナー」、月夜に小舟でこぎ出す若い二人を見送る母と3人の父親。モノトーンの美しい画に流れる「I have a dream」しっとりとしたこれらのシーンもオススメです。

  新婦が結婚式前日に、まだ見ぬ父親候補3人を招いて、本当の父親を確かめようとする。 ストーリー設定のアイデアが抜群なのに、後半はハチャメチャな展開になってしまうのはいかがなものかなという気がしないではありませんが、ハッピーを絵に描いたようなこの作品は、細部(?)には敢えて眼をつぶり、上質の ミュージックビデオクリップを見るごとく楽しむのが、正しい鑑賞法なのかもしれません。

 ABBAのビヨルン&ベニーがカメオ出演しているシーンもありますので、一瞬しか見えなかったそのシーンをしっかり確認するためにも、もう一度見てみたいですね。

オマケ : 「ままみあ、ひあごーあげーん。まい、まい、はうあきゃれじすちゅー」この曲をライブで聴く際、オーディエンスが行うべき正しい振り付けは、ぐーに握った両手の人差し指を上に向け、交互に空を“ツンツン”します。 このとき気をつけなければいけないのは、決して中指を立て、手の甲を相手に向けて行ってはいけないということです。

MOVIX橋本にて

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手焼きせんべい処相模原風林堂のおせんべい日記

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